2011年、大震災が起きた日の事を思い出した。そしてその翌日、悪夢の原発事故を乗り越えた日々

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石森山フラワーセンターのコキア
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3.11大震災発生のその時

 

2010年、21年間の会社員生活を終了してから求職活動をしながら病気療養をしていた。まだ透析治療はしていなかったが慢性腎不全のほかに慢性閉塞性気管支疾患があって呼吸困難で苦しんでいた。鮎斗君が障害者福祉施設へ通所していたから、鮎斗君が乗った通園バスが”つばめパチンコ”につくのを待って車で迎えに出るまでの間、自宅で過ごす毎日だった。

 

その日の午後は2階のベットで横になっていた。いつも、昼寝は眠りが浅いので、そんな中、突然ガタガタ揺れ始めて、夢うつつのボーッとした頭で、「地震だな!」と思い、目は覚めたが揺れが大きくなるか確認するように上半身だけ起こして身構えた。

 

震度3とか4ぐらいならいつものことだから驚かないが、今回のは揺れが収まる様子がない。「これは大きいな!」と思った瞬間ガバっと布団を剥ぎ落としてベットから飛び降りた。

 

壁際に手作りした木棚に並んでいたCDがバサバサ、ガチャガチャとフローリングの床に落ちるのを見て次の瞬間、「テレビが倒れる!」と思った。

テレビを倒すな、レグザを守れ!

 

1階リビングにあるテレビは、40インチのレグザだ。長男が(鮎斗君のお兄ちゃん)大枚をはたいて買ってくれたばかりだったのでテレビだけは倒してはならないと思いながら、揺れが更に大きくなる中、階段の左右の壁に両手を突っ張りながら、一段一段確かめるように駆け降りた。1階の階段の上がり口の壁際に手作りしたテレビ台の上に設置したレグザがゆらゆら揺れていたがかろうじて倒れずに踏ん張っていてくれた。

 

レグザを左手で押さえながら、その右側にある食器棚の皿が飛び出さないよう扉を右手で押さえた。テレビのすぐ上にはこれもDIYで作った3段の棚があった。そこに並んだCDがテレビを押さえる腕の脇をすり抜けて床にガチャガチャ落ちた。もう30秒か1分くらいは時間が経ったろうか、「これはデカイな!震度5以上だな」と思いながら、必死でレグザを守った。

 

家の柱がギシギシ鳴って少し恐怖だったけど、やがて揺れは静まった。幸いなことにCDの他に落ちたり壊れたものはなかった。揺れがすっかり治まってすぐにテレビをつけると震度情報が映し出されていた。いわきは震度6弱といていた。

 

津波警報もすぐに出た。((M9.0)は、国内観測史上最大規模の地震であったとか。)
その後何度か余震があったが心配するような震度ではなかった。我が家には特に大きな被害がなかったことに安堵した。

鮎斗君が帰ってこない

 

夕方になって、鮎斗君を迎えに行く時間になった。通園バスの到着場所になっているパチンコセンターの駐車場で鮎斗君の帰りを待っていた。いつもなら、4時45分ごろ到着するバスはが、5時過ぎても来ない。5時半過ぎてもまだ来ない。”これは何かあったな!”とは思ったが、それがさっきの地震の影響だとは思いもしなかった。

 

その頃、一緒に帰りを待つ他の通所施設の利用者さんの所に、施設から電話が入って「地震の影響で通園バスを運行できなくなっているから施設まで迎えに来てほしい。」との連絡が入った。

 

”そうか、そう言えば津波警報が出ていたんだ”と思った。鮎斗君が通う通所施設は家から東京方面へ20kmほどの所で、途中、小名浜を大きく迂回するバイパスルートになっている。施設は小高い山の頂上付近にあって、又小名浜の海岸からは遥かに遠く離れているから、津波の心配は全くしていなかった。そのころ小名浜近辺の海岸沿いでは大津波が襲来し想像を絶する大変な事態になっていたのだ。

 

一旦、家に戻ってから、バイパス経由で施設まで鮎斗君を迎えに行くことになった。5分ほど車を走らせるとすぐに渋滞にぶつかった。5分停止して5メートル進む、を繰り返し、10分も全く動かない状態も続いた。「多分、津波の影響で避難する車で渋滞しているのだろう」とは思った。

大地震の大きさを、まざまざと知る

 

いつもなら施設までは車で30分くらいの所だが、2時間経ってもまだ半分も過ぎていない。もうすっかり暗くなっていた。全く認識不足だった。9時ごろになって丁度中間地点くらいの所に差し掛かった。500メートルくらい先で数台のパトカーがランプを点滅させているのが見えた。道路が大きくうねって陥没しているのだ。ここから先は通行止めだ、皆ここからUターンしていた。そしてここまで来て、やっと地震の甚大な大きさに気がついた。

 

Uターンしながら、何としても施設までたどり着かないといけないと、道のりを頭の中で検索した。湯本町から泉町へ抜ける山道をずっと昔に通った事があったのを思い出した。途中バイパスを降りて、湯本町から山道に入った、予想はしていたがやはり、土砂崩れで通行止めになっていた。何度かルートを変えて施設のある地区を大きく通り過ぎる山道に入った。記憶にあった道ではなかったがなんとか植田の街までたどり着いた。植田の駅前を通過して旧国道に出て戻るように走って施設までたどり着いた。

 

施設にやっとの思いでたどり着いたのは9時になっていた。まだ迎えに来ていない親御さんを待っている人も何人かいた。鮎斗君はいつもとは違う状況でもパニックを起こすことなくお父さんが到着するのを待っていてくれたようだった。鮎斗君を車に乗せて早々今来た道を引き返した。帰り道は大渋滞も収まり、通行止め箇所も分かっていたので避けて行くことが出来てスムーズに通行できた。無事に家に帰ると11時になっていた。

 

あの悪夢の一日は8年過ぎた今でも鮮明に思い出せる。しかし、その後、最強最悪の事態が起こるとは想像もしなかった。

 

さらに襲った恐怖と悪夢の水素爆発

 

次回は福島第一原子力発電所の水素爆発事故を経験してをお話したい。

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