鮎斗君のお父さんの会社員時代とは

お父さん、お母さん
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食の世界に飛び込んで…修行時代

 

鮎斗君のお父さんが生まれ育った北海道大樹町の郊外に「旭川ラーメン」の名店があった。細かい経緯はすっかり忘れてしまったが、とにかく其処で最初の食の世界に飛び込んだ。福島の田舎町いわき市から列車で20時間以上離れた大樹町に行くことになった。

 

町から少し離れた郊外の国道沿いにあったそのラーメン店はカウンター5席、小上りに4人がけテーブルが2席しかない物置小屋を改造したような小さな店だったが、”うまい”との評判で連日200人ほどの来店客で結構賑わっていた。今でこそ来客200名ぐらいは普通で何ら繁盛店とは言い難いが、人工1万人に満たない小さな町の小さな店では、お昼時は常に満席で結構忙しくしていた。

 

しかし、冬になると、そこは北海道だから、連日雪が降ると雪かきだけの毎日で来客はゼロになることも珍しくなかった。結局、その店は半年足らずで辞めてしまい、この”いわき”に舞い戻ってきた。

 

いわきに戻って、最初に勤めた会社は、当時流行っていた”札幌ラーメン”を売りにしたフランチャイズで”どさん子”チェーンだった。市内に4店舗を運営する合資会社だった。そこで最初に配属された店は、温泉街の駅前にあった。土日は400食は売れる繁盛店だった。毎年1月の金毘羅様のお祭りの時には10万人の観光客を集める大イベントがあって、一日で1000食近く売り上げた時もあった。
今では、どこにでもあった店舗は次々閉店してすっかり廃れてしまったが、当時はラーメンといえば「どさん子」というくらい隆盛を誇っていた。味噌ラーメン一杯250円の時代である。

 

チェーン店では、麺やスープやその他ラーメンに使われる具材などはすべて一括して本部の工場で製造し配送になるものを使用するスタイルだ。店での仕込みはせいぜい薬味のネギを刻んだり、パック詰めになったチャーシューをスライスする程度の単純な作業ばかりだった。多種多様な料理を作るための調理技術は皆無といってもいい仕事内容だった。麺の茹で揚げ作業に明け暮れる淡々とした毎日を送っていた。

 

そんな中あるとき、そこの社長に一冊のビジネス本を頂いた。ある自動車メーカーのセールスマンが書いたノウハウ成功本だ。社長が何かの経営セミナーに参加したとき、そこで買わされたものらしい。社長もあまり興味がなかったらしく、自分に向けてポンと放るように投げてよこした。受け取って表紙のタイトルをみて、あまり興味はなかったが社長の手前そのまま投げ捨てるわけにもいかないから少しだけパラパラ開いて読んでみた。

 

内容は、セールスのかけ方、夜討ち朝駆けのやり方、電話やFAXの活用法、自前作成の広告攻勢のやり方など車を売るための様々なノウハウが書かれていた。本の中の主人公はまだ入社したばかりの初心者で先輩たちの間をぬって電話も自由に使うことが出来ず思うようにセールス活動が出来なかったかようだ。専用の電話やFAXを入れてもらうよう申請してもそう簡単にはいかず低迷する成績に悩んでいたという。そして、それならいっその事 ”自腹で電話FAXを引こう”と思ったらしい。自腹で設置した電話を活用することで目覚ましい活躍をして営業成績もトップに躍り出たという。後にその業績が認められ自費で引いた電話などの費用は会社が負担してくれたそうだ。…との内容だった。

どのような形かは別にして、「自分に投資しろ」ということらしい。上から(会社や上司)与えられた物、言われたことだけやっていてはだめで目標をもってチャレンジすることが大事だということだった。

 

その当時は、自動車を売るためのノウハウなんてラーメン屋の自分の仕事には関係ないだろうと決めつけて、それきり長い間忘れてしまっていた。

 

事業所の管理運営手法を学ぶ

 

その後、ラーメン店では飽き足らず、市内にあった老舗デパートにあったレストランに勤めた。最初は中華料理志望だったが、たまたまセクションに空きがなく、洋食部に配属になった。其処では様々な料理の技術を習得できた。ラーメン店では得られない料理の基礎をここで学ぶことができた。

 

でもそこではアルバイト待遇で、25歳だったが年齢的に正社員にはなれないといわれていた。将来を考えて正社員で働ける会社を探していた。結局、そのレストランの先輩に紹介されて、事業所給食の会社に入った。そこは同じ調理の仕事でも、レストランの料理とは全く違った世界で、何百食もの料理を一度に調理する”大量調理”が中心だったが、料理の基本的な技術は一緒なので応用することは難しくなかった。給食会社では調理技術の他に、事業所を運営し管理するという、別の分野の仕事があると言うことも知った。

 

給食では料理提供業務で直接の調理作業のほかに食事の提供に関する全ての管理業務が守備範囲でシェフ兼マネージャーと呼ばれる仕事だ。料理を作ってお客様に提供するためにはまず、どんな料理にするかメニューを決める、栄養計算する、コスト計算する、献立決定後、その食材料を指定の業者に発注し、食材の納入受け入れ等の作業を経て食事がお客様に提供される。その後提供した食数が管理され売上が確認される。大きな流れとしては毎日の売上集計、仕入れ集計、人件費の集計、その他の経費を集計して総合的に収支が計算され、それを各事業所を統括する部署へ送信する。以上のような一連の流れが一週間単位で実施されさらに大きくは月単位、年単位で予算の達成度を測り事業所運営の成果が評価される。

 

これらの流れの中で日常作業として厨房での調理作業の合間を見て調理以外の事務的な帳票作成業務等は当時はまだコンピュータなどは配備されておらず、全て手書きで行われていた。一週間単位でレシピ作成し、食材発注だけでも膨大な作業時間が必要で本来の、”美味しい食事を提供してお客様に喜ばれる事業所を運営する”という本来の業務がおろそかになるほど業務に追われまくっていたのです。

 

自分を磨くもの…自分への投資

 

このままでは到底自分の能力では追いつかない、このままでは身が持たないと限界を感じていたとき、長い間忘れていたラーメン店で働いていたときの”自動車セールスマンが自腹で電話…”のことをふっと思い出していた。

 

そんな悩みながらの毎日のある時、新聞の広告でカード型データベースで串刺し計算ができるというワードプロセッサー専用機、東芝ルポの広告をみた。これならレシピ作成に利用できるかもしれない。レシピが機械化できれば自分の仕事に大いに役立つと思った。が当時の東芝ルポは12万円もしたから、自分にはとても高価な物だった。非常に興味はもったが、タイピングの経験もないし、はたして買っても活用出来るかどうか心配もありしばらくは購入をためらっていた。
しかし、業務は容赦なく迫り忙殺される毎日に背中を押されて、”自腹の電話のやつ、やってみるか”と思い切って購入することにした。

 

ルポを手に入れてからはまずタイピングの習得から始めた。「ローマ字変換」と「漢字かな変換」があったが当時は何も分からず「かな変換」を選択してキーボードのキーと向かい合う毎日で少しづつ上達していった。ある時、世の中の主流は「ローマ字変換」だということを知り即「ローマ字変換」に切り替えた。少しまごついたが20数文字のキー配列を覚えるだけなのでメキメキ上達してブラインドタッチとまではいかないがキー入力に関しては一人前になった。データベースの作成も徐々に進み300ほどのレシピーも作成できた。

 

しかしある時気がついた。データベースで合計集計はできたが任意のレシピを選択して献立表に落とし込んだり、日ごとに集計した食材を各業者ごとの発注書にしたり、データを集計してシミュレーションするなど複雑な処理はワープロ専用機だけでは不可能だということに気づいたのだ。

 

しかし、この膨大な事務作業を何とかしたいという考えは日増しに増大していた。そこで次に挑戦したのがコンピュータだった。でも当時のPCはまだ高価でさすがに敷居が高かった。しかし毎日の作業に忙殺されて業務に疲弊していたから「やっぱりやるしかない」と決心した。自分を磨くために投資しようと思った。決めたらあとは以外に早かった。目標を捉えてからは会社を辞めるという選択肢はなくなった。

 

様々カタログを取寄せ検討を重ね、エプソンのノートPCを選択した。白黒液晶のラップトップで28万円もした。カラー液晶のは70万以上もしていたのでさすがに白黒で我慢だ。当時のPCではメモリーはまだ1M程度でハードディスクも別売りだ。たった100MBで10万円もした。基本ソフトも別売りでMS DOS3.3 Dが3万円ほど、とデータベース管理ソフト「桐」がキャンペーンで価格で6万円、複写伝票が印刷できるバカでかいエプソンのドットインパクトプリンターが12万円、その他ケーブルや備品など総額で70万円の買い物だ(もちろん月賦)。タイピングはそこそこ出来たので特にこまったことはなかったが、当時のPCは使えるまでに厄介な設定が多く習得にしばらく期間を要した、特にBATファイルの設定やコンフィギュレーションファイルと呼ばれるコンピュータの基本動作を左右する初期設定作業を覚えるまではかなり苦戦した。基本ソフトの再インストールも何回も繰り返した。おかげでPCの扱いにはかなり精通できたから、後々には他の事業所の同僚支配人からも一目置かれる存在になった。

 

その後は具体的にどうコンピュータを動作させ、どう目的を遂げるかを実現するデータベースソフト「桐」の習得だ。日本語でプログラミングできるデータベースで複雑なデータ処理も難なくこなせる性能を備えているらしかった。毎日分厚い説明書を片手に格闘した。カード形式で作成したレシピを選択し、自動的に集計し発注書を発行して印刷、作業工程表の印刷など全体的なシステムが完成するまで3年もかかってしまった。プログラムの作成は通常営業業務が終わってからの午後10時、11時までかかったり、土曜日も日曜日もなく、家庭を犠牲にして続けられた。まだ小さかった二人の子供達も妻に任せっきりだったが妻は不平も言わずに黙って協力してくれた。大変な苦労をかけてしまった。今でもその時のことはことは忘れていないし感謝して止まないのです。やっとシステムが完成したあとは仕事が飛躍的に早く片付くようになり、やっと本来業務に集中出来る環境が手に入ったたのです。

 

それからしばらくして会社でも開発されていた帳票管理システム用のPCが事業所にも導入配備になり、さらに業務も効率化された。その後間もなくして更に献立管理システムも開発され事業所配備となり、と同時に苦労の末完成させた自前のレシピ発注システムはお払い箱となった。

 

長い間の苦労は報われるのか

 

まだ会社のシステムが導入される前、ある時事業部長が事業所訪問したときのこと。自分の作ったシステムのメニュー画面には会社のロゴマークがさり気なく描かれたから、部長が表示されたモニターをみて、「こんになことが出来るのか」と驚いていた。自分の業務があまりにも膨大で本来業務が出来ないので自腹で効率化したと、説明すると部長はいたく感動した様子だった。

 

特に期待したわけではないが、後に一巡早く1階級昇格して基本給も3万円上がった。PCの月賦費用も難なく回収できたわけだ。その上にPC技術も習得出来たのだから、自分磨きの決断は正しかったことを確信したのだった。

 

忙しすぎて能力が追いつかず退職に追い込まれるかリスクを承知で挑戦するか迫られたとき自分の選択は間違いではなかったとリタイア後の今も確かにそう思います。(後に病気に倒れてリタイアしたことは予定外のことだったが悔いのない会社員生活だったように思う)

 

事業所管理責任者として長い間働いた中で、よく、若い調理師たちから「どうしたら責任者になれますか?」等と聞かれるときがあった。そんな時はいつもラーメン屋時代に知った「自腹で電話…」の話をして、料理以外にも何か一つ極めることが出来たらそれが自分の腕を磨くことにつながると話していた。今はもう退職して後期高齢者になって会社員時代を振り返ってみると、20年、30年はあっという間だったと思う。結局、まず自分が行動しないと会社は何もしてくれないという事だ。会社が言うことだけやっていたのでは、何者にもなれない。いつ首になっても良いようにいつも自分を磨いておけという事だ。

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