母の記憶 編み物教室の先生、ヌカ小屋のヌカ運び、ヌカストーブ、鮎斗君のお父さんが子供の頃北海道の冬の風景が鮮やかに蘇ります。まさに人生はここから始まって、そしてここから曲がってしまった

少年時代
昭和30年代の雰囲気が出ていますね・・鮎斗君のお父さんと姉
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母は編み物教室の先生をしていた記憶がある。

 

家は平屋で8畳くらいの板の間(居間)と10畳くらいの畳の部屋が2つと土間を挟んで トイレ(当時はトイレとは言わず便所 と言っていた。もちろんボットンです。)が一列に並んだ細長い家だった。

昭和30年代の一般家庭では一家に一台のミシンと編み機があったようです。家の前にはブラザー編み機教室の看板がかけられ お弟子さんたち数人が10畳ほどの畳部屋に並んで座りそれぞれが長さ1.5メートルほどの細長い手動式の家庭用編み機を持ち寄りセーターや毛糸のパンツを作る等していたようだ。僕は2つ上の姉と畳に座りセーターをほぐしたり糸巻きに毛糸を巻きつけるなどの手伝いによく駆り出された。

 

冬の暖房はヌカストーブ

 

便所の隣にはおがくず小屋がさらに続いていて大雪になってもトイレや燃料のおがくずを運べるように屋根は一続きになっていた、当時の北海道(大樹)では冬の暖房に使う燃料はおがくずや石炭をたくストーブが主流だった。家にも板の間部屋の半分ほどを占める大きなヌカ(おがくず)ストーブがあった。ドラム缶ほどのロート状のタンクがついていてそこにヌカを入れて燃やす仕組みだ。深々と雪ふる夜もゴンゴンと燃えるヌカはブリキのストーブが溶けるほど真っ赤になって極寒の部屋を暖めてくれた。

ストーブのヌカが燃えている中にじゃがいもを放り込んで焼いた焼き芋や カボチャ団子(炊いたカボチャをつぶしてお焼き風に丸めたもの)、焼きトウキビ(トウモロコシ)等をストーブで焼くのが僕たちのおやつや食事だった。当時のストーブは煮炊き等料理のときの熱源として主流だったように思う。

 

バット用木材の製材工場

 

街には林業関係で森から伐採された丸太を建築木材や野球バット用に切り出す等、製材所が家の近くにあり母はそこで今でいうパートで働いていた。大川の向う側の街には僕の家の親戚が運営する製材所がありよくそこに遊びに行った。大川のこちら側(僕の家がある)は新大樹、向う側は新通りと呼んでいた。新通りには石屋の叔父で父の一番上の兄弟の家もあったが、そこの叔父さんは僕にとっては「すごい怖い叔父さん」でそこにはあまり近づかなかった。

秋になると新通りから三輪トラックの荷台にいっぱいに積んだオガクズが運ばれてくる、その冬に使う暖房用燃料になるのだ。ヌカ小屋はどのくらいの大きさだったろうか覚えていないが10メートル四方よりは大きかったろうか、そこにヌカは運び入こまれるのだ。当時の一般家庭では石炭を燃やしている家や、石炭とヌカの併用の家などがあったが僕の家はヌカだけだった。

 

ヌカ小屋で始まる人生の曲がり角

 

ヌカは安価だったのだろうか。小屋いっぱいになるのにヌカは何度も運ばれてきた。雪が積もってからは何度か少し大きな橇(馬橇よりは少し小さい)にヌカを詰めた一袋30kg程はあったろう かます(むしろで作った袋)を数個積んで父が新通りから運ぶのを後ろから押し歩いて運んだ記憶がある。冬のヌカは木の水分が凍ってカチカチになる、雪かき用のスコップで欠き割りながら一斗缶に移されストーブに運び込まれ燃やされるのだ。

僕が13歳の春、そんなヌカ小屋で母は発見された。

 

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