鮎斗君のお父さんのお仕事 独身寮の管理人兼食堂のコックさん、薄給の給食業界で人生を掛けた大勝負、お母さんとの出会いもあった

会社員時代
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団地から寮へそして、また団地へ

 

鮎斗君は昭和63年に住宅団地で生まれた。その翌年、お父さんがそれまで勤めていた給食会社を辞めて別の給食サービス運営会社にうつりその会社が運営する、企業の製造工場に勤務する男子社員独身寮に管理人兼コックとして住み込みで勤務することになった。4畳半の小さな管理人室で、管理人が使える部屋として2部屋あったが、1部屋はそれまで使っていた家財道具の置き場にして、もう一つの部屋にコタツを置いて4人で十文字になって寝るという生活をしていた。

 

寮の仕事は、25人の寮生に朝と夕の食事を提供し、共有部分の風呂掃除や廊下などの清掃などをする24時間、気の抜けない仕事だった。お母さんは2歳まえの鮎斗君をおんぶしながら廊下掃除をした。お父さんは食堂の運営が本業だったので25人の朝食と夕食の食事を一人で賄っていた。朝は4時起きで朝食の支度をし、昼間は寮から2kmほど北側にある小高い山の上にある工業団地に建てられた工場の食堂で昼食の手伝いで駆り出された。工場はまだ出来たばかりで、食堂も仮設状態でまだ食数も200食程度と少なかった(後に400食まで増加した)が、仙台から来ていた支配人と栄養士2名、パートさん2,3人が作業していたのでそこにヘルプという形で作業に加わった。

 

昼食が終わると、帰りに自転車をこいで、スーパーに寄って安売りの食材を買って帰り、寮の夕食の支度にとりかかるという具合だ。寮には独身者の他に川崎、横浜などの工場から単身赴任で来ている社員さんも居たので満室状態で25食と少ない食数ではあったが、工場のヘルプもあったので結構ハードな毎日だった。でも土日祝祭日は休みで、家賃、水道、光熱費はかからなかったし、寮生の食事の余りを頂けたので贅沢をしなければ、少ない給料ながら経済的には比較的余裕だった。

 

管理人の仕事は意外と大変

 

そもそも、なぜ、四畳半の狭い部屋で折り重なるように暮らし、24時間気を抜けない過酷とも言える寮の仕事を選んだのかと言う、その経緯を語っておくことにする。

 

寮の仕事の前の職場は、やはり大企業様の工場などの社員食堂を運営する大手の給食会社に勤めていました。そこには主任と呼ばれるチーフとその助手の調理師2名と栄養士1名、パートさん10人くらいが約600食の食事の提供業務をやっていた。そこでは朝食、昼食、喫茶、夕食、夜勤食と3交代で作業にあたっていた。当時から給食の業界では正社員でも月収10万~12万が相場で、自分はまだ独身だったが、手取りで11万円程度と給料は低い方だった。

 

お母さんとの出会い、給食業界は意外に低給与

 

そんな職場に新卒栄養士として入社してきた女性がいた。短大出たての初々しい栄養士に一目惚れだった。知り合って1年足らずで結婚した。結婚当時は妻の収入は7万円ほど、自分は12万に届かない程度だったので、収入が低すぎて県営住宅にも入れなかった程だ。妻との合算でやっと県営住宅に入居できたが、子供が出来ると経済的に困窮し、子供のミルク代もなくて、手持ちのオーディオを売ったり、妻にあげた婚約指輪を質屋にもっていったりもした。銀行で借金を申し込んでも貸してもらえるはずもなく、世間知らずだったが、なんとか、苦しい生活ながら家族仲良く暮らしたものだ。

 

しかし、とにかくこの窮状をなんとかしなければと思っていた所に、求人募集の折込広告が出た。大手の物産会社の系列給食サービス会社のコック兼寮管理人募集の広告で、大手掘削工具製造工場に新設される食堂運営の関連業務でした。

 

はたして、よみは当たったか。某大手物産会社が運営する給食会社で会社員のいろはを学ぶ。

 

 

自分には、ある考えがあった。新工場で食堂も新設ならオープニング時はどこか、東京とか仙台からチーフクラスの調理師が来て、地元採用の調理師たちに指導し、やがて多分1年か2年くらいで元の事業所に戻って行くはずだ。そうであれば、人員に空きが出て工場での調理師として採用されるかもしれない。と、そう思ったのです。大手物産会社の社員なら収入も今よりは良くなるはずだ。と、募集に飛びつき、応募したのです。管理人募集の広告だったので50代以上らしい人が何人か応募していましたが、自分はまだ35歳と若かったからか、すぐに採用通知がきた。そして、寮での生活が始まったのです。

 

よみは的中した。1年もかからなかった、半年程度で支配人は仙台の事業所に帰ることになり、工場の食堂に勤務するよう異動が決まった。工場には男性の調理師が居なかったのが幸いしたようだ。工場に異動するにあたり、寮を出て、近くの雇用促進住宅に入った。正社員としての収入は手取りで19万程度でまだまだ苦しい生活だったが、狭い寮から出られただけでも良かった。でも、さすが大手物産会社の系列だけあって1年後には支配人に昇格し、年収も倍増し、やっと経済的困窮から脱出できたのでした。後に家を建てるまで約7年間、この雇用促進住宅で暮らすことになったのです。
後に5,6年の間隔で他の事業所へ移動、転勤を経験して、この給食会社で20年以上も支配人として務めることが出来たのだった。

 

世間知らずで、経済力もなく、将来の展望もない自分に、4畳半の部屋での苦しい生活にも文句一つも言わず、ついてきてくれた妻と子ども達には、死んでも頭が上がりませんね、感謝、感謝でありがとう。

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