悲しい記憶 鮎斗君のお父さんが13歳のときの出来事で福島の炭鉱町へ行くことになった

お父さん、お母さん
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どうして 母は自らの死を選択したのか

あまりに遠い昔のことで記憶も曖昧だが、それは今は亡い父の裏切りだった。ある時、父と母は温泉の硫黄の匂いが漂うタオルを持って言い争っていたことがあった。どうも、父は他の女性と温泉に行っていたようだ。そのことで母は何度か家出を繰り返して大騒ぎした挙げ句、ある日とうとう自らの命を立ってしまったのだ。夫が妻を置き去りにして他の女性と浮気をするなどはいつの時代でも何処の世界でもよくある事だと今は思うが、自分の父親がそうだったと知っても僕は何のことかも良く理解できていなかった。というより鈍感でまだ世間知らずで大人の世界の出来事が遠い世界の出来事かなにかであり、母の深い悲しみに共感することも父を憎んだりする感情も湧いてこなかった。

 

小さい頃から僕は何事にも無関心で利己主義的な人間だったから、今思い返して見ても母の死を目の前にしても恐ろしいほどどうでも良かった。すぐ隣の棟に住んでいた”じいちゃん”と”ばあちゃん”が死んだときもそうだった。ただ、おやつ代わりの砂糖を舐めさせてくれる人が居なくなった”程度にしか感じていなかったのだ。

 

遠く離れた福島の炭鉱の町へ

 

まあ、そんな訳で、町中の噂になり父はこの町には居られなくなった。生まれて育った大樹の町を友達に別れを告げることもなく、逃げるように出ていった。と言ってもそれでも僕は逃げる父にただついていっただけだった。父の姉を頼りに福島に行くらしかった。ともかく長い時間列車に揺られ連絡船に乗り海峡を渡り本州に入った。それからさらに長い間列車に乗り海沿いの線路を走っていった。たまに四角い窓のへりに肘を付いて頬杖しながら外に時折現れる海をぼんやり眺めて”随分遠くまで来たな”と思った。福島県に入った。北海道の人口1万程度の小さな田舎町から平に着いて最初に感じたのは、なにか”のっぺり”とした顔立ちが外国の人のように見えて、北海道の人たちと”顔がちがうなあ外国に来たみたいだ”と思った。平の駅に降りると大樹とは比べ物にならない人口の多さに”帯広よりおっきいな!”と驚いたのを覚えている。平は当時は今と違ってたくさんの人でごった返して賑わっていた。駅前の30メートル道路にはロータリーがあり沢山の車が行き交っていた。大都会に来てしまったと思った。当時駅前にあったフジ越の屋上で昼ごはんを食べた。何を食べたか覚えていないが食後にスイカを食べたのを覚えている。ハワイアンのかったるいスチールギターやウクレレの奏でるBGMが流れ、たくさんの人で満員状態だったのが印象的に残っている。大樹のからっとした気候に比べると、むせ返るような湿気が気持ち悪い、暑い7月の夏だった。

 

駅前からバスに乗って平の街のベットタウン好間町に付いた。好間は炭鉱の町で大きな立坑がある小高い丘の麓にある小さな貸家の二階に住むことになった。狭っ苦しい4畳半と6畳位の二間の古い部屋だった。窓からは炭鉱住宅が立ち並びそこに

備えられたテニスコートが2面あり高校生らしい人たちがテニスをしているのが見えた。風呂はなく30度はありそうな急な坂道を500メートルほど登った立坑のある丘の上に更に沢山の炭鉱住宅が立ち並び、そこに炭鉱夫達が利用するらしい大きくて深い風呂(温泉)があってそこまで毎日入りに行った。とにかく新しい生活がここから始まった。

 

鮎斗君のお父さんの、お父さんは郵便局員

 

父との記憶はあまり残っていないが、僕が小学校低学年のころ子供用の小さい自転車にのり川向うにある郵便局に務いめていた父のところにいつも行っていた。局の中はインクの匂いに混じって、防腐剤だろうか、ワックスだろうか黒く油の染み込んだような板張りの床の独特な匂いが鼻をついていた。ただ遊びに行ったわけではない、行くと何時も「また来たのか!」とちょっと嫌そうな顔で10円をくれるのだ。僕はその10円欲しさに何度も局まで行った。

 

父は電話かなにかで電報の受付をしていて「電信柱のしん」「東京のとう」とか色々の漢字の読み方の確認らしいことを大きな声で言っているのがカタカタと鳴るタイプライターの音や郵便物にタンタン、タタン、タンタンと調子を付けたようなスタンプを押すハンマーの音などに混じって響いた。そんなのを聞きながら父が来て10円くれるのをじっと待っていた。

 

僕にとっては優しい父であったと思っていた。が、しかし幼かった僕には理解しがたいことがおきた。こともあろうか、母を死に追いやった張本人の父の浮気相手を呼び寄せたのだ。その人を「母さんと呼べと」というのだ。当時はホントに何も分からなかったし意味も理解できなかったが、さすがにそのことは自分史上最悪の出来事だった。

 

父への憎悪と、母への共感

 

まあ、そんなことがあってもそれでもまだ父は優しい人だと思っていた。父さんが好きだった。僕はそのときのことを長い間ずっと忘れて暮らした。僕が25歳のとき父さんは心筋梗塞で亡くなった。49歳だった。早すぎる死に嘆き悲しんだ。母の時には感じなかった感情だった。僕は後期高齢者になって、病気に倒れ職を失い透析治療を受けながら過去の自分を振り返る時間を得た。自分の人生を振り返って、家族を持ち妻や二人の息子に恥じない悔いのない人生だったろうか考えてみたとき、やっと母の深い悲しみを理解し又、父への憎悪の気持ちを自覚しはじめた。自分はなんと薄情な人間だったかと情けない気持ちにもなった。母の深い悲しみに共感出来なかった自分の最も恥ずべき性格を恨んだ、今になってそのことだけが自分の人生の悔いであり失敗だったと思った。

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