鮎斗君のお父さんの少年時代 自動車の修理工 自己満足だけの仕事から、何か物を作って客に提供し喜んでもらうと言う”創造の喜び”の世界を知る

会社員時代
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鮎斗君のお父さん少年時代

17歳の頃鮎斗君のお父さんは町の小さな自動車の修理工場に勤めていた。普通の自動車からダンプカーや建設機械まで幅広い車両の修理業務をてがけていた。今から50年前の事だが、当時の自動車はまだ発展途上で、路上でエンストして動かない車などよく見かけたものだ。車は故障するのが普通で、工場に勤めて間もない経験の浅いお父さんも、エンストしてエンジンが動かない車のレスキューによく駆り出された。大抵、点火プラグにカーボンが溜まって点火し難くなっているか、プラグに電気を配電するディストリビューター内のポイントの接点不良が原因だった。換え用のプラグを何種類かとサンドペーパーを持っていけば対応出来た。

 

工場内では主に車検整備の車の下洗い(ジャッキアップして車の下に潜って高圧洗浄機で泥や油汚れを落とす仕事)やサビを防ぐための黒い塗料の吹き付けなども担当した。それ以外の時間があるときは、砕石場で作業しているブルドーザー等のキャタピラー(無限軌道)の下駄のような形のすり減った歯の部分を溶接で歯付けしたり、油圧シリンダーのオイルリングの交換やエンジントラブルなどの仕事も手がけた。一番気に入っていた仕事は、エンジンの分解オーバーホールだ。パワーの落ちたエンジンのシリンダーをボーリングしたりピストンを交換したりしてエンジンの性能を改善するためにやる作業だ。主に建設や産業機械(ブルドーザー、バックホー)に使われているジーゼルエンジンがその対象だ。微妙な部品の取り付けや調整など重要な仕事は、経験の豊富な先輩方や工場長がやるので、それを見ているだけで、お父さんに任されることはなかった。

 

一人で好きなようにやるのが楽しい

 

18才の時バイクの免許を取った。同い年の同僚工員が乗っていたスズキ500を中古で分割10万円で譲り受けた。スズキ500は2サイクル2気筒の大型バイクだった。エンジンは2サイクル独特の「カチカチ」というメタル音がするのだが、この音が気になってしようがないため何度もエンジンを分解した。仕事では任せてもらえない憧れの仕事を自分のバイクで実現していた。

シリンダーのボーリングやピストンリングの交換を繰り返してその仕事のノウハウを積んでいた。やっぱり、エンジンを分解するのが好きだった。分解して物の構造を見るのが好きだったのだ。結果、メタル音は消えるはずもなく、分解のための費用と時間を無駄に消費しただけだったが自己満足は十分に味わえた。分解好きは今も直らなかったが、仕事ではエンジンのオーバーホールやキャブレター(ガソリンの供給装置)のオーバーホール、バルブ類の分解などで、その性格がいかんなく発揮されたのだから、この工場での仕事は性に合う最適の仕事だったと言えたのだ。

 

一番イヤだったのはアッポ車(バキュームカーのことをそう呼んでいた)の洗浄、サビ穴の溶接だ。その当時の家庭ではまだボットン便所が多く、町には多くのアッポ車が走っていた。アッポ車が工場に入ってくると、それだけで鼻が曲がるほどの悪臭が漂った。その車のタンクは錆びやすいからか、よく穴が空いたので、穴を溶接で塞ぐために入庫していた。穴に補強用の鉄板を当てて酸素バーナーで鉄板とタンクを溶接するが、タンクは熱せられて「くさや」を焼いた時の数十倍の強烈な臭気に増幅して、工場中に漂っていたことを思い出す。

(注、この事はあくまでも臭いに関する一般的な感想を述べただけで、決して汲み取りの仕事を否定したり揶揄したりするものではないので、悪しからず。)

 

独りよがりの自己満足

 

お父さんは一人仕事が性に合っていて、自分ひとりでやった事に自己満足していただけなのだが、他の人と協力しながらやる仕事は苦手だった。ある時、油圧コントロールバルブ(シリンダーの油圧をコントロールして機器の動作を制御するバルブ)を取り外す作業をしていて、そのバルブはかなり重いので二人でないと難しいが、一人でやろうと頑張っていた。取り付けているボルトを外して、何とか下ろすには下ろすことができた。バルブをバラ(分解)して部品を交換して組み立てを終わると、今度はバルブを機体に取り付けるため持ち上げてボルトをセットしようとして、右手でボルトを持ちバルブを左手で抱えるように支えるが、重さに耐えきれずズルズルと下がってしまいボルトをセットできない。すると、そこにスッと先輩がバルブを支えようと手を添えてくれたのだが、何故かその手を振り払った。と、同時に50kgはあるかと思われるバルブが足の甲の上に落ちた。靴は安全靴でつま先部分には鉄板が巻いてあるので足を怪我することはなかったが、落下と同時に、先輩のグーパンチが顔面を捉えた、直後、2発目、3発目のグーが飛んで鼻血が飛び散った。”余計なことするな”と言わんばかりに、粋がって手を払ったのだから、ムカついた先輩の気持ちは理解できた。抵抗はしなかった、というより抵抗できなかった。何でも一人でやることに、こだわって他の人の意見を受け入れたり協調したりすることができない生意気な性格だった。

 

創造の喜びを知る

 

そんな仕事も3年を過ぎると少しずつ飽きが来ていた。その頃、5歳位い年上の先輩のところに友人がよく遊びに来ていてその人が勤めていた製缶工場に職変えすることになった。そこでは旋盤でネジを切る作業を主に担当したが、旋盤の仕事は単調で延々と同じ作業の繰り返しだったから、性に合わなかった。お父さんの、父親はそのころタクシーの運転手をしていたが、タクシーの業界もなかなか厳しいらしく、運転の仕事は辞めて、ラーメン屋をやりたいと言っていた。そのラーメン作りの修業に行かないかと誘われていたのだ。今までとは全く畑違いの業界に行くことにした。

 

お父さんの生まれた町に一軒のラーメン店があった。旭川ラーメンの名門店で、人口一万程度のこの町で一日400杯を売る繁盛店だ。お父さんより5歳位年上の相撲取りの様に体の大きな人とその奥さんが二人でやっていた所に、弟子入りすることになった。いよいよここから、飲食の業界に足を踏み入れることになったのだ。このころ丁度20歳になっていた。いままでの自己満足だけの仕事から、何か物を作って客に提供し喜んでもらうと言う”創造の喜び”の世界を知って、少年期は終わりを告げたのだ。

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