いつもの朝梅雨真っ只中 鮎斗君の何気ない仕草や表情などの中に普通では味わえない喜びを感じることができる。

鮎斗君
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繰返す毎日

 

朝、鮎斗君を起こしていつも通っている障がい者支援施設まで車で送っていく。朝から蒸し暑い感じがする。車に乗り込んでエンジンを起動する。細かな霧とも靄(もや)ともつかない極細かい水滴がフロントガラスにびっしりと張り付いている。ワイパーのレバーを左手で弾くとワイパーが作動して水滴を勢いよく弾き落とすと一気に視界が開けて車内が明るくなった。サイドウインドウを開けると生暖かい空気が車内に流れ込んできて蒸し暑くなる。すぐにウインドウを閉めてエアコンを24度にセットした。出がけに団地の入り口にある自販機前で停車したら、いつものように鮎斗君に冷たいジョージアを1缶とお父さんの自分用にエナジードリンクを1缶買う。この団地は小高い丘の上に位置しているからバイパスへ降りる坂道下の信号機の高さと目線が同じ位置にくる。その信号機のさらに上方に見える水石山の天辺にかかる雲の様子でその日の天気が読み取れる。今日はどんよりと薄黒いグレーの雲がのしかかっている。多分午後から雨になるだろう。

 

施設までは20㎞位の道のりを往復約1時間だ。鮎斗君を施設に送った後、真直ぐ帰宅すると、もう9時半になっている。あの忌まわしい原発事故以来、洗濯物はずっと室内干しだから梅雨の時期はいつもカビ臭い生乾き臭がしている。朝出かける前に漂白液につけ置きした洗顔タオルを軽く絞って洗濯機の中に放り込む。鮎斗君が脱ぎ散らかした着替えを一緒に放り込んでスタートボタンを押した。洗濯している間に、昨晩からキッチンの流し台の中にため込まれた食器を洗い終わったら、今度は朝食をとる。15センチの小さいフライパンをガス台にのせて火を付ける。卵を二個割り入れて蓋をして蒸し焼きにする。ご飯の上に載せ醤油を回しかけて簡単に朝食を済ませた。

 

何気ない毎日が繰り返されて一日が過ぎていく。何処の家庭でも同じだろうが、自分はこのブログを始めて、過去の出来事や繰返す今日を振り返って見ると、随分大変な人生だったなあと思う。13歳で母を亡くし、25歳で父を亡くした。子供の頃にはスケートで腕も折ったし足も折った。自転車やバイクで交通事故にもあったし、病気に倒れて透析の身にもなった。あの忌まわしい大震災や原発事故にも遭遇した。嫌なこと苦しかったことが沢山あった。

 

けれど嬉しい、楽しい、幸せだった事も沢山あったことに気づく。最愛の妻とめぐり合えたし、二人の息子にも恵まれて極普通の幸せもたくさんあった。特に障害を持った鮎斗君と出会ったことは掛け替えのない人生の幸福だったと気付くことが出来たのだ。病気になった直後は”何で俺がこうなった、何が悪かったんだ!”と、随分悲観して自分を責めた時期もあった。でも、ゲームばっかりしていた長男が我が一族で初めて大学に合格して二人して飛び上がって喜んだのも、つい昨日のことのようだ。素直で真っすぐに育ってくれた。障害を持った鮎斗君を授かったことを悲観したことは一度もなかった。

ゲームの記憶

 

鮎斗君の何気ないちょっとした仕草や表情、行動などの中に普通では味わえない喜びを感じることができる。普通なら3歳児の可愛さは当然のことで、少しずつ成長していく姿に喜びを感じるのだろうが、次第に大きくなるにつれそれは薄れていき、悪態を着くようにもなるだろう。しかし、鮎斗君の場合は30年を過ぎた今も3歳児の可愛さが持続している。未だにできなかった事が出来るようになることがある。少しづつ成長する様子を見ることが出来る。今も毎日のように、お父さんやお母さんに喜びを与えてくれているのだから。

 

お父さんは、もともと楽天的な性格なので、”透析になったおかげで沢山の時間を得て人生を振り返るチャンスをもらえた”と考えている。会社を退職に追い込まれたのも、”過労死する前に、神様が最後にもう一度だけ生きるチャンスを与えてくれたんだ”とも思えるようになった。障害のある鮎斗君と一緒に生きてきて、鮎斗君の優しい笑顔に癒されることで、物事に悲観しないで前向きに考えられるようになった。お母さんも”職場の激しいイジメ”にも耐えられるのは、帰宅したとき鮎斗君が「あふれる笑顔」を見せてくれるからだと言っている。

 

鮎斗君は養護学校に通うようになっていた10才位の小さかった頃、テレビゲームに取りつかれていた。ゲームは主に「ストⅡ」だ。特に「ザンギエフ」のキャラクターが大好きで「ストⅡ」をする時はいつもザンギエフから始まっていた。ザンギエフキャラだけは何回も何回も繰り返しプレーします。同じ町内に親戚の魚屋があって、そこに居候していた水道工事屋のおじさんは「タメさん」と呼ばれていてそのタメさんの風貌が「ザンギエフ」によく似ていた。お父さんはよく鮎斗君を魚屋に連れて行った。夕方、魚屋の店先から入ると、その奥が住居になっていてタメさんはその座敷の畳に座ってテレビを見ながら晩酌をしていた。鮎斗君はちょこちょこと座敷に上がってタメさんの横に静かにお座りして一緒にテレビを見た。またある時は、その魚屋の二階にタメさんの寝室があって、寝ているタメさんの布団に潜り込んで嬉しそうに添い寝したこともあった。

 

鮎斗君にとってザンギエフはゲームの中のキャラクターと言うだけではなく、身近に実在する触れることができるキャラクターであり、一緒にいてくれる優しいおじさんとだと思っていたようだ。そしてさらに鮎斗君の頭の中は「ザンギエフ」でいっぱいだったようだ。当時鮎斗君が暮らしていた雇用促進住宅の6階の自宅の畳には、大好きなザンギエフの顔がマジックで描かれていた。初めて人と分かる絵を描いたから、しかもそれがすぐにザンギエフだと理解できる絵だったからお父さんも、お母さんも鮎斗君は天才だと本気で思った。(普通、健常な人ならこの程度の絵なら3、4才になれば普通に書けるんでしょうけど・・・)

 

ザンギエフ?

 

更にこんなエピソードもある。あるとき、通学していた養護学校の鮎斗君の先生から2枚の写真を見せられた。その写真には鮎斗君が施設内でおもちゃのボーリングのピンを並べて遊んでいる様子が写っていた。そのボーリングのピンには数字の番号が描かれていて、鮎斗君はそのピンを6、5、3の順に並べていた。2枚とも並べ方は違うけど両方に6、5、3のピンが置かれていた。鮎斗君の先生に、「この番号の並びにはなにか意味があるんでしょうか?」と聞かれた。その番号は当時お父さんが乗っていた自家用車のナンバーの番号だったから、ほかの番号も混ざっていたがお父さんもお母さんもただの偶然の並びではないとすぐに分かった。鮎斗君はいつもお父さんの車をよく見ていて記憶していたんだろうと思った。

 

 

自閉症の人は見た物を一枚の写真のように写し取って頭の中に記憶したり、それを取り出したりしているらしい。記憶に関するエピソードは他にもたくさんあるが上の二例は今もお父さんの記憶に最も鮮明に残る特徴的なエピソードだ。

 

何が幸せだったのかは人生の終わりになって見ないとわからないと思うが、このブログを書くようになって、自分自身や、家族のことを振り返ってみて、多くの試練を乗り越えてきたんだなあと思った。そして、鮎斗君やお母さん、兄ちゃんと一緒に暮らせたこと、鮎斗君がいたからこそ幸福な人生だったと言える。

 

 

 

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